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浅瀬石城(あせいしじょう)は、青森県黒石市高賀野にあった平山城である。別名汗石城。
城は北へ突き出た舌状台地の先端にある。城址は、現在リンゴ園となっており、堀跡は、農園内の作道となっている。近くには、浅瀬石川が流れている。城の構造は東方・北方に浅瀬石川が流れているが、西方・南方の城下があった高賀野方面は平地である為、田舎館・大光寺方面との連携が必要である。
仁治元年(1240)、南部一戸氏流、(閉伊氏・桓武平氏千葉氏流説もある。)千徳行重が築城した。元応2(1320)年に城を改修、拡張。 室町時代初期には南部家重臣桜庭氏が拠っていたらしい 。文明年間には、7代城主千徳政久は大光寺南部氏の代官として繁栄した。戦国時代、10代城主千徳政氏が永禄4年(1561)、津軽為信と同盟(永禄の約)を結んだ。すると、南部信直は激怒して名久井兼隆を攻手として天正13年(1585)4月、3000の軍勢で浅瀬石城を攻撃してきたものの撃退した(宇杭野の合戦)。しかし、この合戦で為信が援軍を出さなかった事により後の不和の原因となったといわれている。1597年(慶長2年)2月、千徳政保の代に、永禄の約を反故にされ津軽氏との同盟が破綻し、千徳氏家臣木村越後らが本丸を急襲、敵将森岡金吾などの津軽軍2500人の攻撃を受け、2000の城兵は奮戦したが落城、千徳政保は自害したため、廃城となった。なお、政保の次男千徳進士は堀越の屋敷にいたところ、屋敷を急襲され討ち死にした。政保の弟誠之助の子は、家臣に連れられ、盛岡藩に落ち延び、浅瀬石を名乗って仕官し、現在に続くという。